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 投稿者:田中嘉和(17回生)  投稿日:2014年 8月12日(火)20時06分8秒
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   1980年入学の17回生です。試験問題漏洩事件が発覚した暗黒年度の新入生でした。我々17回生は入学前から「なべの会」を知っていた人間が多い。というのも、「螢雪時代」(旺文社の受験雑誌)に、「なべの会」の活動を紹介した記事が掲載され、記事を真に受けた残念な子たちが多数入会したからです。私もそんな1人です。記事が虚偽だったわけではありませんが、美化がきつかった…、ですね…。

 入学してすぐに、7号館4Fロビーに行った私は、速攻で班分けされ、装備を渡され(大鍋とか、包丁とか、お玉とか調味料とかです)、そのまま栄通りどん詰まりにあった居酒屋「ふる里」に連れて行かれ、そこでしこたま飲まされたのが「なべデビュー」でした。奢ってもらい、装備も持たされている以上、とりあえず活動に出るしかありません。アリ地獄のような勧誘です。
 我々が活動していた時代は、まだまだ都心近郊に班活動(野草調理)ができる場所も多く、路線で言えば、西武池袋線が多かった。芦ヶ久保、西吾野、吾野、東吾野、武蔵横手、高麗(巾着田)、飯能といったところです。私は高尾山口駅(京王線)から15分ほど歩いた山林(梅の木平といったか…。高尾山とは国道20号を挟んで反対側。なべ伝説の1つ、“鍋吊りの木”があった場所です)が、最初の活動地だったと記憶しています。ポンチョを広げ、採集の用意をしている時に営林署(?)のおっさんがやってきて、「即刻、活動は止めてもらおうか!」と、ものすごくでかい声で怒鳴られたのを覚えています。班長だった宮崎先輩がどういい逃れたのかは聞き漏らしましたが、結果、あっさり「それならいいや」ということになり活動を再開。いったいどんなやり取りがあったのでしょう、宮崎先輩?
 活動地には小川べりにクレソンが密生しており、これがとても美味しかった。「八百屋で売っているものが、タダで手に入るのか…」と、味よりもコッチのほうが感動だったように思います。この時のもう1つの思い出は、残った大鍋の味噌汁を、新入生2人で処理させられた(もちろん、残らず飲み干す!)ことですね。食べ過ぎて「吐くか」と思ったのは、たぶんこの時が最初でしょう。残飯処理は新入生の仕事でしたが、以後の活動では班に新入生も増えたことで、残飯処理に苦しんだ思い出はありません。ちなみに、我々17回生はわりと人数が多く、40人ぐらいが常に活動していたと思います。「蛍雪時代」効果、あなどり難しです。

 この頃のなべの会は、テレビや雑誌等への露出がけっこうありました。時代がバブル前兆期の中で、早稲田の学生も少しずつおしゃれになっており、なべの会の持つ“早稲田伝統”の匂いは既に異彩を放っていた、ということだったのでしょうか。そういえば、なべの会、精神高揚会、旅の会(だったか?)は、早稲田3大バカサークルと学内で呼ばれていましたね。早慶戦一番乗りをめざして1週間以上前から神宮球場に泊まりこんでいる、「コイツら、アタマおかしいんじゃないか?!」っていう人間の集まりでしたから、当時のなべ(の多く)は。この神宮泊まりこみでは、今だったら絶対ニュースになってしまうような、いろんな事件が起こりました。楽しかったな。いや、社会には多大な迷惑をかけましたが。

 「あの頃のなべの会」を思い出すと、「アタマおかしいんじゃないか」っていう同期、先輩、後輩と、毎日のように酒を飲んでいたことが真っ先に浮かんできます。そして、学生の傍若無人ぶりに意外と寛容だったあの頃の社会風潮と早稲田の町に、今更ながら感謝を覚える次第。無かったことにしたい思い出は多々ありますが、それを差し引いてなお、すごぶる楽しかった「なべライフ」です。
 
 
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